宴会屋形船・山原丸TOP


屋形船ガイド



こだわり



宴会屋形船色々






宴会しながら屋形船で遊覧したい!そんな方は宴会屋形船・山原丸で豪華に屋形船クルーズ!

宴会屋形船・山原丸

屋形船と羽地内海の歴史

屋形船の歴史

屋形船とは・・・

屋形船とは基本的に、15〜80名程度を収容できる座敷が備えられた船です。最近の屋形船は屋根にデッキを設けて外に出られるようにした船もあったりします。そして屋形船を営む業者を「船宿」と呼びます。
貸切の屋形船はおもに宴会の目的で運航され、料理と酒が提供されたり、通常の宴会だけでなく、会議室として会議や研修に利用してり、花火大会の観覧や結婚式等のイベント時に利用されたりするなど、屋形船は利用形態も多種多様です。少人数でも乗れる乗合の屋形船も運航しています。
屋形船は通常お酒が飲み放題、屋形船の厨房で揚げた天ぷらや刺身がメインです。あと食事とデザート、冬は鍋料理が加わったりします。屋形船の各船宿によってこまかい違いが有り個性とサービスを競い合っています。
川に屋形船を浮かべ、そこにしつらえた宴席で遊ぶという形は、江戸時代前期から存在していて、その頃の屋形船は屋根舟と呼ばれて大名、旗本のような位の高い武士や豪商のためのものでした。料亭より格式が高い、と言われていた屋形船は、この頃の話です。
現在のような、水上に浮かぶ宴会型移動大個室座敷屋形船という性格を強めて客の敷居を広げ、誰でも気軽に楽しめるようになった屋形船は、昭和末期のバブル景気の頃にその形を整えていきました。

屋形船には文化が詰まっています


屋形船の歴史

屋形船が最も盛んになったのは江戸時代でした。江戸時代、江戸は隅田川などを中心とした河、堀を使った水上交通が発達して、これによって江戸の文化・経済が栄えるようになっていきました。江戸の経済・文化が熟するにつれ、武士や大名・比較的裕福な町民・承認が盛んに屋形船の遊びを行いました。

その頃になると江戸武士だけに限らず、日本全国で屋形船が誕生し、各地で桜を愛でたり、俳句を詠んだり...と粋を楽しむようになりました。

屋形船自体も、徳川の泰平を象徴するかのように、豪華な遊楽船も造られていきました。最初は定員約20名位と比較的小さな船ばかりでしたが、有力な大名などは自前の屋形船の豪華さを競いあい、屋形船は次第に大型化していきました(川御座船と呼ばれていました)。屋形船の大型化だけでなく、その装飾は豪華をきわめ、金・銀・漆・絵画などあらゆる手段で装飾され、当時の屋形船では芸者衆と遊ぶことが一般的となり、『其美筆紙に尽くし難し』とまで言われたそうです。

屋形船の長さが11間幅3間部屋数10もある大型船はあまりにも華美すぎるので、幕府はついに装飾や大きさに制限を加えはじめ、『遊山船金銀之紋、座敷之内絵書き申間敷事』ほど制限され、禁令がでるほどであったと伝えられています。

屋形船遊びは江戸幕府が倒れた後も庶民の間で「風流な遊び」として明治、大正、昭和初期、と続き、屋形船は全国各地で親しまれました。
昭和20年頃、屋形船にも大きな変動時期が訪れました。昭和20年代、日本は太平洋戦争に敗れ、人々は屋形船を楽しむ余裕を失ってしまいました。また近年に入り東京の河川は水質の汚れや、コンクリートの殺風景な防壁が築かれたことにより、屋形船はほぼその姿を消してしまいました。屋形船の復活はごく近年のことなのです。

 

羽地内海の歴史

 羽地内海 

“朝凪りと夕凪り 屋我地漕じ渡て 我部の平松に思い残ち”
“あさどりとゆうどり やがじくじわたて がぶのひらまちに うむいぬくち” 

「ヨーテー節」に出てくる一節です。羽地番所(現名護市)に勤務している役人が朝な夕な、羽地内海を舟で渡り、会いに通った屋我地島我部にすむ美童(みやらび)に送った惜別の唄という説と、モーアシビの時間が過ぎて、羽地に帰らねばならぬ若者の、後ろ髪惹かれる恋情を歌ったものとする説があります。

うりずんの季節は、イジュの花を愛でながら本島北部にある羽地内海の周りを、ヨーンナー道ゆらりしましょう。一番の眺望といわれる嵐山展望台から見下ろす羽地内海の景色は、屋我地島と奥武島に囲まれて、ブルーやエメラルド色に塗り分けられた静で力強い海面を、風が道を描がきながら渡っていきます。大小の島々は琉球松の緑をシンメトリックに散らして、控え目ながらも凛とした美しさを演出しています。古宇利島その視界には入ってきます。「島の上に海がある」あの瀬戸内の風景と同じです。海と空だけでなく、島々が加わって作り出す空間(風景)は沖縄では結構珍しい景色だと思います。休日にはボートが浮び、ウジュルやチヌ釣を楽しむ地元の人達の姿が年間を通じて多く見られます。内海は西側で細い水道が北に伸び、源為朝伝説がある天然の良港「運天港」を通って外海に通じています。この内海を地場の漁師は「ウヤヌフチュクルー(母の懐)」と呼び、恰好の台風避難港となっています。フェリー第八古宇利丸はもう見る事は出来ませんが、伊平屋、伊是名へのフェリーはまだ健在です。内海東側は屋我地と奥武島の橋をくぐって外海です。そんな地形のせいか、1960年チリー沖で起きた地震の時の津波で、橋は損壊し家屋も浸水被害を受けてしまいました。

羽地ターブックヮー
羽地ターブックヮーでの田植え風景

今帰仁村と名護市にまたがる内海周辺は古琉球時代の文化遺跡が残り、宋の硬貨や東南アジアの陶器も出土したり、古窯もあります。「屋我地マース」の名は今は塩田跡となって残っています。羽地米の米どころ「羽地ターブックヮー」と呼ばれる一帯では「啓蟄」の頃一期作の田植が行われます。この地方には宮古島の「アララガマ」と似た、「シチマンタル」スピリット(精神)があって「ヤキパニジャ」(働き者)を多く生んでいるとも言われています。

鄙びた風景が展開する内海周遊を、大和路を散策するような気持ちで訪ねれば、沖縄の歴史ロマンの扉が開いてグスク時代へ招待してくれる筈です。内海にある20余の島は、ヤガンナ島のように死者の常世だったり、あるいはモーアシビの舞台になったりしていたそうです。この地で生まれた唄「ヨーテー節」が、人々の往来によって「西武門節」と名前を替え那覇で聞かれるようになったのでした。

昔話、怪談も多く語り継がれています。皆さんは全くの暗闇を体験された事はありますか?南部のガマで戦争疑似体験をされた方は闇の恐怖をご存知でしょう。昔の人は夜目が利いたとは思いますが、街の灯一つ、民家の灯りひとつ無い夜道は怪談話などの温床だったとおもいます。言い伝えられたそんな話は、民俗学上で貴重な資料となって、往時の人々の暮らしのジンブンを今に伝えています。

屋我地島には、運天港の対岸に位置する場所に亀甲墓風西洋墓「オランダ墓」があります。「石投げマジムン」の話がある淋しい場所にフランス船員2名が葬られています。沖縄サミット時には駐日仏大使が慰霊に来ました。仏軍艦も答礼に寄港しました。

ペリーに先駆ける事7年前の1846年5月、フランスの提督が軍艦3隻を率いて、2度目の貿易開港を琉球王府に迫ります。歴史のミステリーですが、那覇に入港後、改めて運天港を交渉の舞台としたのです。王府役人達の巧妙な外交術と叩頭礼で、異次元の世界に迷い込んだ提督は暑さと物資欠乏に苦しみだします。「肌に粟粒が生じる不気味さ」を味わいながら1ヶ月後の5月、長崎にむけ出港します。この間に亡くなった船員を、王府が手厚く葬ったのが「オランダ墓」です。この時発揮された、見事な外交術と守禮の志は、今も沖縄経済界にも脈脈と生きていると思います。

海の向こうから来る人々に示す親切心は沖縄の伝統です。小さな王国の琉球が諸外国から大切にされてきたその恩に、報いる心は「島人の宝」として守り通していきたいとされるウチナーンチュは大勢いらっしゃいます。楽しい旅は美しい自然と文化に出会い、その土地の人々の心に接する事で得られるものと思います。これを参考にして、屋形船の旅をするとよりいっそう楽しめると思います。

ページTOPへ↑↑↑

 

TOP概要お問い合せ屋形船申し込みフォーム
宴会屋形船・山原丸 〒905-1143 沖縄県名護市字真喜屋9-12-28 tel 0980-3171-9454 fax 0980-3171-7664